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東京高等裁判所 昭和53年(う)1091号 判決 1978年12月11日

被告人 小原七五三

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金四万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金二、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

原審および当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、豊島区検察庁検察官水原敏博作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

論旨は、事実誤認ないし法令適用の誤りの主張である。

本件公訴事実(訴因変更後のもの)は、「被告人は、昭和五〇年六月二四日午後三時五五分ころ、業務として普通乗用自動車を運転し、東京都板橋区若木一丁目一〇番七号先の交通整理の行なわれていない交差点を西台方面から前野町方面に向かい左折進行するにあたり、同交差点に一時停止の道路標識が設置され、かつ当時道路左角にはマンシヨン工事のための高さ約三・五メートルの安全防護壁が道路際まで建てられていたこともあり、特に左方道路の見とおしがすこぶる困難であつたのであるから、同交差点の直前で一時停止するはもちろん、小きざみ運転し警笛を鳴らすなどして左右の安全を確認すべき注意義務があるのに、同交差点の直前で一時停止せず、かつ左右道路の安全を確認しないで時速約一〇キロメートルで進行した業務上の過失により、自車を折りから左方道路(前野町方面)から進行してきた牧浦耕一郎(当時二五年)運転の自動二輪車に衝突転倒させ、よつて、同人に加療約六か月間を要する右足関節開放脱臼骨折の傷害を負わせたものである。」というのであるところ、

原判決は、

1  公訴事実記載の日時、場所において、被告人運転の普通乗用自動車(以下被告人車という。)と牧浦耕一郎運転の自動二輪車(以下牧浦車という)とが衝突し、同事故により右牧浦が加療約一六五日を要する右足関節開放脱臼骨折の傷害を負つたこと、

2  事故現場の交差点(以下本件交差点という。)の形状、交差道路の幅員等は、別紙図面(本判決添付)のとおりであり、同交差点は交通整理が行なわれておらず、交差道路はいずれも歩車道の区別はなく、また中央線による交通規制も行なわれておらず、優先道路にも指定されていないこと、被告人車が進行してきた西台方面からの道路(以下甲道路という。)には、交差点入口の手前約二・二五メートルの道路左端に一時停止の道路標識が設置され、また交差点入口の手前約一メートルの地点に停止線が設けられていたこと、他方牧浦車が進行してきた前野町方面からの道路(以下乙道路という。)には、一時停止の標識はなかつたこと、本件事故当時、甲道路と乙道路が接続する本件交差点の北東角には、甲乙両道路の側端線に沿つて高さ約三・五メートルの工事用の安全防護壁が建て回らされており、これにさえぎられて甲乙両道路の相互の見とおしが非常に悪かつたこと、

3  被告人は、甲道路を南方に向かつて進行し、本件交差点を前野町方面に向けて左折しようとしたのであるが、交差点に進入するにあたり一時停止することなく時速約一〇キロメートルで進行し、被告人車の先端部分がやや交差点内に入つた地点で左方の乙道路から交差点に向かい進行してくる牧浦車を左前方約六・八メートルの地点に発見し、衝突の危険を感じ直ちに急制動の措置を講じたが及ばず、甲道路の交差点入口(乙道路の北側端線)から約一・六五メートル、乙道路の交差点入口から約二メートルの本件交差点内で、被告人車の前部右側部分と牧浦車の右側ハンドル付近とが衝突して本件事故に至り、被告人車は、車体を左方に少し振つた状態で衝突地点に停止し、牧浦車は同人とともに路上に転倒したこと、

4  牧浦は、乙道路を東方に向かつて進行し、本件交差点を直進しようとしたのであるが、交差点に進入するにあたり徐行することなく時速約二五キロメートルで進行し、交差点入口の少し手前で被告人車を前方約五メートルの地点に発見し、制動措置を講ずるいとまもなく、急拠ハンドルを左に切つたが及ばず、前記のとおり被告人車と衝突したこと、

5  乙道路の幅員は、本件交差点入口付近で約三・八九メートル、同出口付近で約四・〇四メートルであるが、牧浦は、交差点に進入して交差点内の乙道路を進行するにあたり、少くとも本件衝突地点付近においては、乙道路の中央から右の部分である右衝突地点付近すなわち乙道路の右側端線(交差点の西台方面からの入口の側端線)から交差点内へ約一・六五メートルの地点に自車をはみ出して通行したこと、

以上の各事実を挙示の証拠により認定したうえ、これらの事実をもとに、被告人に公訴事実記載のごとき過失があるか否かについて判断し、

(イ)  道路交通法一八条一項によれば、自動二輪車は道路の左側に寄つて通行しなければならないのにかかわらず、牧浦は、法定の除外事由がないのに同法一七条三項にも違反して乙道路の右側部分を通行し、しかも、牧浦車の進路からは本件交差点の右方道路(甲道路)の見とおしがきかず、かつ、法律上、乙道路の通行車両が本件交差点における徐行義務を解除されているわけでもないのに、同法四二条一号に違反し、徐行することなく、時速約二五キロメートルで本件交差点に進入したのであり、他方被告人は、本件交差点手前で一時停止しなかつたものの、時速約一〇キロメートルで進行し、交差点の入口のほぼ直前において牧浦車を発見し直ちに急制動の措置をとつているのであるから、被告人としては本件交差点に進入するにあたり左方道路の交通につき相当注意をしながら進行したものというべきであり、牧浦車が右のように法規違反の運転方法により本件交差点に進入してくることを被告人において予期しまたはこれを容易に予期し得る特段の事情のあることを認めるに足りる証拠のない本件においては、被告人には、本件交差点を左折進行するにあたり、牧浦車のような法規違反の通行方法をとる車両のあることを予見し、その有無を確認してこれとの衝突事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務まではないと解するのを相当とする旨判示し、本件につきいわゆる信頼の原則を適用して、被告人に、左方道路の交通の安全確認義務を欠いた過失はないとし、

(ロ)  さらに、被告人が本件交差点手前において一時停止を怠つた点についても、被告人は、自車を乙道路の中央から手前の地点に停止させており、牧浦車が法規に従つて乙道路の左側部分を通行してさえおれば、本件事故は発生しなかつたはずであるから、被告人が交差点手前で一時停止しなかつたことをもつて、ただちに被告人に過失があるということはできない、

として、本件事故における被告人の過失を否定し、被告人に対し無罪の言渡をした。

これに対し、所論は要するに、原判決の前記イ、ロの判断は誤りであると主張し、右(イ)の見解は、被告人に課せられた交差点手前における一時停止義務および交差道路の交通安全確認義務の重要性を過少評価するものである。そもそも被告人に一時停止義務違反という重大な交通法規の違反があつた以上、信頼の原則の適用される余地はない。しかるに原判決が本件につきこれを適用したのは、同原則を不当に拡張するものである。また、(ロ)のごとき論法をもつてすれば、被告人車が法規に従い交差点手前で停止してさえおれば、たとえ牧浦が道路右側にはみ出して通行し、かつ徐行を怠つたとしても本件事故は発生しなかつたはずであるから、この点についての牧浦の過失もまた否定せざるを得なくなる筈であつて、かかる見解の誤りであることは明らかである、などとして、結局原判決は、被告人の過失を否定した点において、事実誤認ないし刑法二一一条前段の解釈適用を誤つた違法があり、破棄を免れない、というのである。

そこで、所論にかんがみ記録を調査し、当審における事実取調の結果を合わせて検討する。

まず、原審で取り調べた証拠を総合すれば、原判決認定の前記1ないし5の各事実は、本件交差点出口付近における乙道路の幅員が原判示のように約四・〇四メートルではなく約四・二八メートルであることを除き、すべてこれを肯認でき、当審における事実取調の結果によつても右認定を左右するものはない。

もつとも、被告人は、原審、当審各公判廷において、「本件交差点手前で一時停止した、その後左方を注視しながら時速約五キロメートルで徐々に発進した」と供述し、検察官による取調の際にも概ね同旨の供述をしている。しかし、被告人の司法警察員に対する供述調書によれば、被告人は、警察官による取調に際しては、一時停止することなく時速約一〇キロメートルで本件交差点に進入した旨供述しているのである。被告人は、右供述をした動機として、「事故直後の実況見分および警察での取調の際に、一時停止をした旨再三主張したが、取調の警察官が、『一時停止をしておればこのような事故は起らない』と言つて自己の主張を認めてくれなかつたので、やむなく一時停止を怠つた旨虚偽の供述をし、供述調書に署名押印した。」との趣旨の弁解をしているが、被告人の右弁解は、及川廣幸(実況見分および被告人の取調担当警察官)、浜野隆次(実況見分担当警察官)の各原審証言と対比してもたやすく信用できない。ちなみに、関係証拠によれば、本件事故現場付近には、被告人車のスリツプ痕のほかに他の車両のスリツプ痕が印されていたところ、被告人は、実況見分に際し、当初、自己の立場を有利にすべく、他の車両のスリツプ痕を自車のスリツプ痕であるとして指示・主張していたことが認められ、このような被告人であつてみれば、身柄を拘束されたわけでもないのに、たやすく取調官に迎合し、自己にとつて極めて不利な虚偽の供述をするなどということは、まず考えられないところである。

のみならず、司法警察員作成の昭和五〇年六月二四日付実況見分調書、及川廣幸、浜野隆次の各原審証言によれば、事故現場であるアスフアルト舗装道路上には、被告人車の両前輪による長さ約〇・八五メートルの二条のスリツプ痕が印されていたことが認められ、このことからみても、被告人が牧浦車を発見して急制動をかけた際、被告人車は、少くとも、被告人が警察官に対し供述している、時速約一〇キロメートルを下らない速度で進行していたことをうかがうに十分であるところ、仮に被告人がその供述のように、本件交差点手前で一時停止した後本件のような狭い交差点を左折進行すべく徐々に発進したのであれば、被告人が牧浦車を発見した地点(同地点は、被告人が一時停止したと主張する地点のわずか三メートル足らず前方の地点である。)において、被告人車の速度が右の程度に達していたなどとは到底考えられない。

このようにして、本件交差点の手前で一時停止したとの前記被告人の各供述は、たやすく措信できず、被告人の司法警察員に対する供述調書およびその他の関係証拠によれば、前記のとおり、被告人において一時停止することなく時速約一〇キロメートルで本件交差点に進入したことを認めるに十分である。

そこで、次に被告人の過失の有無について検討する。

なるほど、本件交差点は交差道路の見とおしがきかないのにかかわらず、牧浦車が徐行せず、しかも道路の右側部分を通行して本件交差点に進入したことは前記のとおりであつて、これらの点において牧浦が道路交通法に違反する運転方法をとつていたことは原判決説示のとおりであり、本件事故につき同人に相当の過失のあつたことはもとより否定できない。

しかし、ひるがえつて考えるに、前記のとおり、被告人車が進行してきた甲道路には一時停止の標識があつたのであるから、乙道路を通行する車両のうちには、甲道路通行車両が右標識に従い本件交差点手前で一時停止するであろうことを予測したうえ、徐行することなく、牧浦車程度の速度で交差点に進入する車両もあり得ることは、現下の一般的な交通の状況に照らしても十分に予見し得るところである。

また、牧浦車が進行した乙道路は、前記のとおり、わずか四メートル前後の狭い道路であるうえ中央線による交通規制も行なわれていなかつたというのであり、しかも牧浦車は、道路右側部分にはみ出していたとはいえ、衝突時の同車の位置からもうかがえるように、そのはみ出しの程度はさして大きくなかつたのであつて、右のような道路状況のもとにおいては、この程度のはみ出し運転をする車両のあり得ることは、予見可能であると解するのが相当である。ちなみに、乙道路の幅員や、同道路左端に電柱等の障害物がある(原裁判所の検証調書等参照)ことにかんがみれば、普通乗用自動車等四輪自動車にとつて、道路の右側部分にはみ出さずに乙道路を通行することは事実上非常に困難であるとさえいえるのであり、また、当審において取り調べた検察官作成の実況見分調書によれば、現実に、乙道路を通行する自動二輪車の中には、本件交差点を通過するに際し、牧浦車同様道路の右側部分にはみ出して通行する車両も相当数あることがうかがわれるのであつて、以上にかんがみても、牧浦車の通行方法がとくに異常なものであつたともいいきれない。

以上によつて明らかな、本件交差点における各道路及び交通の諸状況にかんがみれば、被告人としては、本件交差点を左折進行するにあたり、他車(ことに左方道路から交差点に進入してくる車両)との衝突等不測の事故を回避すべくとくに慎重な運転をなすべき注意義務があることはいうまでもなく、これを具体的にいえば、道路標識に従い交差点手前で一時停止することはもちろん、牧浦車のような速度と方法により交差点に進入してくる車両もあり得ることを予見したうえ、左右道路(ことに左方道路)の状況に絶えず注意しながら徐々に発進し、その時時の見とおしの程度等に即応して、場合によつては発進停止を繰り返えす小きざみ運転をし、警笛を鳴らすなどして、左右道路の安全を確認しながら進行すべき注意義務があるというべきである。被告人として、牧浦車のごとき法規違反の通行方法をとる車両のあり得ることを予見すべき義務はないとの原判決の見解には到底賛同できない。

しかるに、被告人は、本件交差点の手前で一時停止することなく、しかも時速約一〇キロメートルという、本件交差点の道路状況に相応しない速度でこれに進入左折しようとし、牧浦車を発見してただちに急制動したが及ばず、本件事故に至つたというのであるから、被告人に、前記認定の業務上の注意義務を怠つた過失があるといわなければならない。

結局本件については、原判決のように、被告人に対し信頼の原則を適用する余地はなく、原判決の前記(イ)の、見解は維持することはできない。

また、被告人に対し信頼の原則を適用できない以上、被告人の一時停止義務違反が本件事故における重要な過失の内容をなしているものというべきことは当然であつて、原判決の前記(ロ)の見解もまた、所論をまつまでもなく失当である。

もつとも、原判決の右(ロ)の説示は、被告人の過失と本件事故との間の因果関係を否定する趣旨と解されなくもない。

しかし、司法警察員作成の昭和五〇年六月二四日付実況見分調書等によれば、被告人は、牧浦車を発見してから自車を約一・四五メートル進行させて停止し、停止地点で牧浦車と衝突したことが認められ、前記のごとき停止の際における被告人車の向き、被告人車および牧浦車の衝突の部位、衝突の状況等にかんがみれば、被告人が交差点手前で一時停止したうえ前説示のごとき適切な運転方法をとり、牧浦車を発見した地点で即座に自車を停止させていれば、本件事故を回避し得たことは明らかであるから、被告人の過失と本件事故との間に法律上の因果関係があることは何らの疑いもない。

以上に説示したとおりであつて、本件事故について、被告人に業務上の注意義務を怠つた過失があることは否定できず、これにより牧浦に対し傷害を負わせたものであるから、被告人の本件所為が刑法二一一条前段の業務上過失傷害罪を構成することはいうまでもない。

してみると、原判決は、本件につきいわゆる信頼の原則を適用して被告人の過失を否定した点において右法条の解釈適用を誤つたものというのほかなく、この誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるので、原判決はその余の論旨に対する判断をまつまでもなく破棄を免れない。

よつて刑訴法三九七条一項、三八〇条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書を適用して被告事件につき更に次のとおり判決する。

(罪となるべき事実)

被害者牧浦の傷害の要加療期間を約一六五日と訂正するほか、すでに引用した本件公訴事実と同一であるから、これを引用する。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

被告人の判示所為は、刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するので、所定刑中罰金刑を選択し、その所定金額の範囲内で被告人を罰金四万円に処し、右の罰金を完納することができないときは、刑法一八条により金二、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置することとし、原審および当審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項本文を適用して全部これを被告人に負担させることとする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 岡村治信 小瀬保郎 南三郎)

(別紙)

図面<省略>

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